責任という虚構

『責任という虚構』小坂井敏晶(著)

書評
執筆責任者:Takuma Kogawa
社会一般では、人間は自由な存在であり、自らの行為を主体的に選んでいると考えられている。しかし人間は社会的な存在でもあり、他の人間などの外部環境によって常に行動や判断を制限されている。実際、ミルグラム実験等により、外部要因が人間に影響を与えることが示されている。AがBを銃で撃ったとしよう。AがBを殺したいと頭の中で思っているだけではBは死なず、単なるAの願望として解釈される。実際にAが引き金を引くと、Bが撃たれるという「できごと」が発生する。Bが即死せずに救急搬送されたとすると、搬送中に死亡するかもしれないし、一命をとりとめるかもしれない。AがBを銃で撃つという「できごと」は同じでも、Bが死ぬかどうかいよって殺人か殺人未遂という評価、あるいは出来事に対する責任があとから決定される。殺したいという意志だけをもってAは銃の引き金を引いたのだと結論づけることはできない。しかしながら、第三者の視点ではAの行為があったという事実が表出しなければAの内面はわからない。Aが銃の引き金を引いたという事実を「できごと」ではなく「行為」として認めることが、そこに意志の存在を事後的に構成している。Aの行為がAの意志に基づいているかどうかが問われているのではなく、意志の存在を仮定したうえで行為という虚構を作り出している。Bが死亡するかどうかによりAの罪や責任の大きさが変わるように、社会秩序という意味構造の中に行為を位置づけ、辻褄合わせをする。これが「責任」とよばれる社会慣習である。最初にAに責任があるという事実が存在するのではなく、「Aに責任がある」という社会規範(虚構)があり、だから「Aは責任をとるべきだ」という考えが正当化されている。殺害が禁忌という「正しい」社会規範があるからこそ、そこから逸脱したものは責任があるとみなされる。正義が先に規定されるから悪が生まれるという事実を認識するべきである。
(800文字)

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基礎教養部

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