ニールス・ボーアは日本で何を見たか

『ニールス・ボーアは日本で何を見たか』長島要一(著)

書評
執筆責任者:Yuta
現代物理学の父、ニールス・ボーアは、日中戦争勃発の年、一九三七年の四月から五月にかけてひと月ほど日本を訪れ、各地の帝国大学で講演を行なうことで、日本の理論物理学、核物理学の発展に多大な貢献をした。当時理化学研究所に所属していた仁科芳雄は、自ら五年以上にわたってボーアが所長だったデンマークのコペンハーゲン研究所で過ごしたことがあり、いわばボーアの弟子にあたっていた。その仁科の多年にわたる尽力の末に、ようやく実現の運びとなったのが世界的権威ボーアの日本招聘であった。仁科芳雄は、岡山県出身の物理学者で、弟子に湯川秀樹や朝永信一郎を持つ。理化学研究所の研究員補となってすぐ、ヨーロッパ留学が決まり、二年ほど経った後ボーアと出会い、彼の研究室に五年半滞在することとなった。コペンハーゲンは当時、名実ともに物理学の世界的中心地であった。全世界の若い学者たちがボーア教授を慕ってこの北欧の一都市に集まり数々の革命的な研究がこれらの若い学徒の手によって成し遂げられていた。肩書、年齢、国籍、社会的地位、個々人の性癖などにはこだわらない平等に共同作業を続けていける「コペンハーゲン的精神」もこの研究所の特徴の一つである。本書は、ボーアの生い立ちから来日実現に至るまでの話、来日中の細かなボーア一家の動向を次男ハンスの日記や当時の新聞記事などを通して知ることができる。仁科とボーアが冗談で笑いあっていたり、ボーアが仁科を4ミリに向かって笑顔で歩いてくるようにとやらせをさせたりなど、師弟の距離感なども窺える。ボーアが日本で富士山を例にとった相補性原理の説明と、滞在中に体感した古くからある日本の文化から受けたカルチャーショックから、新たにめぐらせた相補性についての思索は、科学と哲学を結びつけ、生物学や心理学、諸文化間相互の関係への応用に至らせたのである。物理を学んでいる人、学びたい人は読んでみてはいかがだろう。
(800文字)

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