反=日本語論

『反=日本語論』蓮實 重彦 (著)

書評
執筆責任者:けろたん
「言葉/日本語が乱れる」とはどういうことか説明できるだろうか?槍玉に上がることが多いのは、「~られる」を「~れる」(例:食べられる→食べれる)とする「ら抜きことば」や、様々な感情表現を「やばい」や「エモい」の一語で片付ける語彙の貧弱さだろう。このような言語使用に対してしばしば否定的な立場から下される価値判断が「乱れ」という言葉に集約される。この判断の根源となるのは、表現が遷移する過程の「ゆれ」を理想的からの逸脱と捉える規範意識である。国語の乱れを嘆く論者というのはかつての日本にも存在し、本書を通底するのは、1970年代後半までに提起されていた正しさ、美しさ、明晰性を掲げる日本語論に対する「反」である。無論、美しくない日本語、正しくない日本語を無条件に肯定するのでも、ましてあらゆる逸脱を包摂するのが言語の望ましい姿だと主張しているのでもない。「反」の徴証たる言語的体験がどのようなものか想像するために、著者自身による著者を取り巻く人物の素描を引くと、「決して正しく美しい日本語を語りはしない妻と、日本語とフランス語とを同時に母国語として操る子供と、母国語ではないフランス語を、家庭的な必然と職業上の必要とから語り、かつ教えつつある筆者」とある。夫、父、教師、仏文学者としての立場から描かれる著者と他者との言葉のやり取り。さらには文学、哲学・思想の読解を通して、言語と別の言語の摩擦、言語でないものが言語になってしまう/言語が言語でないものになってしまう葛藤を追体験できるだろう。登場する言語は日本語とフランス語だが、主題は言語と現実との距離である。「言語が思考を規定する」などと抽象論を嘯く前に、現に語り語られている言葉を見つめなおすための視点を養う一冊として推薦する。
(739文字)

追加記事 -note-

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

ジェイラボ
基礎教養部

コメント

コメントする

目次