柔らかな頬

『柔らかな頬』桐野夏生(著)

書評
執筆責任者:いいだ
カスミは二児の母としての生活に疲れ果てていた。売れない製版印刷に身を捧げる退屈な夫。育児と支払いに追われるうだつの上がらない暮らし。それに耐えることが出来なかったカスミは、夫の仕事仲間である石山と急速に恋に落ちていく。石山は都会育ちのお坊ちゃんで、田舎から逃げるように上京してきたカスミのその野生的な魅力に惹かれていた。家族にばれて、破滅するならそれで良い。そう思えるほど二人の恋は燃え上がっていた。そんな二人はお互いの家族を招いた旅行と称し、北海道の別荘で秘密の逢瀬を画策するのだった…ここまで聞けばただの不倫モノだが、筆者はそんな安直な恋愛を許さない。なんとカスミの娘の一人が別荘から消失してしまうのである。探せど探せど見つからず、石山や家族が東京に帰った後もカスミは一人で娘を探し続ける。それから4年経ち東京に帰った後も、カスミは娘の影を追い続ける。囚われ続けてしまう。過去に一度、男との恋のために家族を捨てようと決意したにも関わらず、である。大いに矛盾を孕んでいるように見えるが、人間の心を正確に描き出しているようにも見える。そう思わせる巧みな表現力で、疑念と希望と絶望を往復しながら物語は思いもよらない方向へ展開していく。身勝手な自分のエゴに苦しみ、他者の悪意に悩まされ、それでも頼りない希望に縋って生き永らえるカスミの姿。はっきり言って感情移入しやすい主人公ではないし、分かりやすいカタルシスが得られるのでもない。それでもページをめくる手が止まらないのは、そこに現実世界よりも「リアル」な人間の正体を見出せるからである。自分の心の頼りなさ。他者存在の不透明さ。どこまでいっても逃れられない運命。あちこちに詰め込まれたディティールが、抜けない棘のように読者の胸の奥に突き刺さる。激流に飲み込まれたカスミが最後に辿り着く「真実」について、誰もが深く考えさせられるに違いない。
(793文字)

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